幼児期
私は昭和34年に東京都新宿区で生まれました。父方の祖父は自宅で呉服屋を営んでおり、お客さんに色鮮やかな反物を広げて商談している様子を今でも憶えています。母方の祖父は富山県の田舎で神社、仏閣などを手掛ける宮大工の棟梁をしており、夏休みに木の香りのする木工の作業場で遊んだ記憶があります。幼少の頃、反物のデザインや木工所でのモノづくりに触れたことは、今の自分のオフィスづくりに対する意匠や空間構成などの興味につながる体験だったような気がします。
小学生時代
私の生まれた家は早稲田大学の近くにありました。そのせいで、小学生の頃、10歳年上の従兄が早稲田大学の建築学科に合格すると、庭に別棟を建てて下宿することになりました。小学生の私は、図面を描いたり、模型を作ったりしている従兄の姿を傍で見ながら、建築やデザインに対して自然と興味を持つようになりました。建築には先端の工法や構造技術を駆使するエンジニアリング的な側面もありますが、私はむしろ建築が生み出す空間と人との関わりというヒューマンな領域に興味があり、理工学部の学科でありながら、もっとも人との接点の多い学問という点に魅かれるものを感じました。人を取り囲む環境や空間への関心は当時芽生えたものだと思います。
中学、高校時代
小学校を卒業し、公立中学に進んだ私は、その後、早稲田大学高等学院に進学しました。早稲田大学には付属高校も含めて、学費全額免除の大隈奨学金というのがあります。この奨学生に選ばれて親の負担を軽くしたいと思った私は、毎回試験の時期に綿密な計画をたてて勉強し、常にクラス1番の成績を維持し、高校3年間の学費を全て免除して頂きました。私には特別の才能はありませんが、約1か月前から計画し、それを実行し成果を出すという30日間の集中学習法を編み出して、目標の奨学金をゲットした訳です。こじつけに聞こえるかも知れませんが、今行っているオフィスづくりのコンサルティングも、ほぼ30日間をひと区切りとして実施します。高校時代に培った試験勉強のスケジュールが役に立っているのかも知れません。
大学・大学院時代
付属高校の推薦を受け、夢だった早稲田大学の建築学科に入学した私は、結果的に大学4年間も奨学金で学費免除を受け、大学1年の時には、奨学金のお蔭で地中海周辺の国々を回るヨーロッパ建築ツアーに参加し、生まれて初めて海外視察のチャンスに恵まれました。スペインでガウディの建築が持つ有機的なフォルムと機能性が同居したユニークな表現に魅せられたり、フランスでベルサイユ宮殿に施された装飾芸術のエネルギーに圧倒されたり、イタリアのミラノ大聖堂やバチカンのサンピエトロ大聖堂では宗教的情熱なしには実現不可能な巨大建築プロジェクトのスケール感に驚嘆しました。ギリシャでは、パルテノン神殿を訪ねましたが、近代建築の巨匠、ル・コルビュジェが「伽藍が白かったとき」で賛美した古代建築のモニュメントには、今でも、「伽藍が白かった時」を彷彿とさせる時代を超えた普遍的な美意識を感じました。エジプトではクフ王のものとされるギザのピラミッドを訪ねました。不思議なことに、ピラミッド入口でその時撮影した写真には私の体のまわりに虹色の光がオーラのように映っていました。正に神秘的とも言える建造物であるピラミッドには人智を超えた英知を感じさせるものがあります。
この建築ツアーは、建築やデザインをより広く文明史的な観点でとらえる経験を与えてくれました。現在のオフィス環境も人類の歴史の中で進化を遂げてきたワーク環境の成果と捉えることもできます。私は、時代背景やそこで働く人々の生態、企業文化といった幅広い視点でオフィスにアプローチしたいと考えていますが、その源流は、この時の経験にあるのかもしれません。
大学卒業後は、早稲田大学の大学院に進学し修士号を取得しました。在学中は、早稲田大学高等学院の本庄高校の実施設計に関わらせていただき、初めて設計実務に触れる機会を得ました。また、大学院修了間際にロータリー財団国際親善奨学生に応募したところ、奨学生に選ばれる幸運を得、恩師の穂積信夫先生の推薦状のお蔭で、米国テキサス州のライス大学建築学科の大学院に留学することができました。初めての留学経験では、学校生活の他にも様々な経験をさせて頂きましたが、印象に残っているのは、留学中ホストファミリーになっていただいたロータリアンのご一家が理想的なワークライフバランスを体現されていたことです。このご一家は現在では西海岸に引っ越されて、今ではファミリー牧場を営みながら、楽しく暮らしていらっしゃいます。私のオフィスづくりが目指すのは、「働くことと幸せになることの両立」ですが、その実例として、今でも当時の印象を思い出します。
就職、再び留学
帰国後、某ゼネコンの設計部に就職しました。主に担当した仕事は再開発プロジェクトの企画設計、工場の実施設計、住宅設計、設計コンペなどです。そろそろまたアメリカでの生活が恋しくなってきた入社5年目、突然留学制度が発足しました。私は、日本でも福岡のシーホーク・ホテル、NTT新宿本社ビル、国立国際美術館などの作品で知られる世界的建築家シーザー・ペリの事務所に2年間出向するというプログラムで応募したところ運よく採用され、再び渡米することができました。シーザー・ペリの事務所では、主にオハイオ州の劇場設計に参加させて頂きました。シーザーは、「建築は建築家より重要で、 都市は建築よりもっと重要、 そして人の存在は一番重要」と主張していらっしゃいます。私もシーザーにならって、オフィスづくりのコンサルティングをする際には、人の存在を最も重視しています。
渡米後2年が過ぎ、帰国の時期を迎えるころ、以前から興味のあったハーバード大学大学院の修士プログラムに応募したところ、当時、イェール大学建築学部長をされていたシーザー・ペリの推薦状も手伝って、合格することができました。会社にも特別の計らいで留学期間を延長していただき、ハーバード大学建築学科の大学院、通称GSDで設計学の修士を取得しました。GSDでは、街づくりのデザインなどを学びましたが、当時は米国全体で、コミュニティーを育む街づくりへの関心が高まっており、車が主役であるかのようなスケール感と経済優先の街づくりから、人が歩いて行ける範囲に、人が主役の街づくりをするというコンセプトを推進することが中心テーマとして議論されていました。現在、私はこの考え方をもとに、オフィスをコミュニティーと捉え、人と人の交流を促進するオフィスづくりを提唱しています。
留学を終えて帰国してから半年後、さいたまスーパーアリーナの国際コンペのプロジェクトに参加する機会に恵まれました。その際、関西国際空港を設計した世界的建築家レンゾ・ピアノと仕事をさせていただいたことは一番の思い出です。何度も訪れたジェノバにあるレンゾ・ピアノの事務所は地中海を見下ろす緑の丘陵に建つガラスと木の建築で、周りの自然と見事に一体化したオフィスは、正にワーカーの創造性を最大限に引き出す理想のワークプレイスでした。この経験は、オフィス環境に自然やエコのテーマを取り込むことの重要性を再認識させてくれました。
転職、そしてドウマ設立
2000年に、オフィスのインテリアという分野に特化した設計事務所、ミダスに転職しました。これまでの人生を振り返り、働く人の環境という重要な課題に取り組む仕事にやりがいを感じたからです。入社当初から、この分野にはコンサルティングが必要であるという確信がありました。設計行為は、クライアントの要望の確認からはじまりますが、オフィスの場合、発注者という意味のクライアントだけでなく、そこで働くユーザーである社員全員の要望を知ることが重要です。また、市場の変貌やITの進化などにより働き方も急速に変化しており、オフィス環境もそれに相応しく生まれ変わろうとしています。このような状況の中で、あるべきオフィスの条件を具体的に見出すためのコンサルティングは、オフィスづくりにとって必須のものです。しかし、ミダスに入社した当初はまだまだオフィスのインテリアデザインといえば、受付の意匠に凝ったり、オフィス家具や仕上げ材料の選択をしたりすることだという認識が一般的でした。しかし、一方で、失われた90年代以降の低迷する市場経済のなかで、働き方を変えなければいけないという課題認識が広まり、それに伴ってオフィス環境の見直しも必要だという機運が徐々に顕在化しつつあることも感じておりました。そして、ミダスに入社して10年後の2010年にDOUMA(ドウマ)というオフィスのコンサルティングを専門に行う会社を立ち上げました。設立以来、様々な案件のワークプレイスコンサルティングをさせて頂き、現在に至っています。
これから
このプロフィールを書くために、いままでの人生を振り返りつつ、現在自分の行っているワークプレイスストラテジーとの関連性を紐解いていくと、全てがつながっているような思いにとらわれます。コンサルティングはコンサルタントの経験的知恵が核になる仕事です。今までの経験で培ったものを最大限に活用しながら、社員が元気になることで、会社を元気にするオフィスづくりをこれからも行っていきたいと思います。